信と不信(香川浩彦)遠藤周作について神を信じることの苦難

神を信じることの苦難

それでも、神は存在する

さて、遠藤氏や私が考える自殺タブー論は神キリストを信じる者には確かに有効ですし、たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです詩篇二十三章ということもあるでしょう。ィアドロローサを歩むイエスを思えば、あらゆるこの世の財産資産家族も含めては最後は捨てればいいでしょう。つまり、彼彼女らが生きて行く道を自由に選択する権利を与え、自らも孤独に生きて行くというものです。これにしても、イエスのィアドロローサと十字架の死よりはいいということなのでしょう。

しかし、今、浅はかな私が考えるのは全てを捨てるということが結局、行き詰まったときのキリスト者の最後の選択ということになります。

それ以外の選択はないのでしょう?わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよヨブ記1章20節という聖句も思い浮かびます。すると、最後はどうなるのでしょうか?神の御手に委ねたてまつるということになるのでしょうか?やはり、分かりません。

絶望すること、それは神への離反ですが、離反しなければ、生きていけぬこともあるのではないでしょうか?

つまり、これは死ぬこと、ということになります。生きていけぬ、ということがこれ即ち、死ぬ、死を選ぶということになります。でなければ、最後まで、神の名を呼び、飢えて行く身体と渇いて行く心を視ながら、最後まで、つまり餓死するまで自分を凝視め続ける、ということになります。宗教学者山折哲雄氏は最も崇高な死は餓死であると言っていますが、彼はクリスチャンではありません。クリスチャンなら、どう言ったでしょう?分かりません。

やっぱり、餓死なのでしょうか?神様、教えて下さい。

さて、遠藤氏は冒頭の言葉の後で、実は聖書の中で、イエスの足を涙で濡らす娼婦の話しをしています。そうしてこの娼婦が自分の職業の卑しさや生きて行く困難さから神に絶望すれば、それは罪なのだと言っています。おっしゃることは分かりますが、これも困難なことでしょう。逃れ場はないのでしょうか?いよいよ私には分からなくなってしまいました。分かっていることはいかにも困難なことを神は私たちに押しつける、いや、お与えになる、ということです。嗚呼、本当に分かりません。生きて行くことは神を呪うほど、いや、神の存在を疑うほど困難な場合もやはりあるのではないでしょうか?分かりません。嗚呼!

マザーテレサは晩年、神の沈黙に疑いを持ったと言います。しかし、それは神は存在している故に、それでも沈黙するのかという抗議だったと私は思います。つまり、マザーは神は存在しているが、沈黙していると思ったというわけです。マザーは絶望はしなかった。これは確かなことです。神に出会った者、その苦難はどのような絶望的な目にあっても、神は存在するのは確かなのだから、その存在は刻印のように心に刻みつけられて、疑うことが出来ないという苦難であって、忍耐なのです。